はりまぜデザインが選ばれる理由
小さなシール1枚のデザインから、農園全体のブランディングまで、
弊社はしっかりお話をお聞きいたします。
たんなる話を聞くだけではありません。
「売りたい」「アピールしたい」など、
皆様が望む未来、描いている世界を形にするために
弊社独自に開発した【農業ヒヤリングシート】を使用し、お話をお聞きします。
他のデザイン会社が真似できない、経験と実績の結晶です。
何故農業にデザインが必要と感じたのか?
大人になるまで野菜が大嫌いでした。。。
母が地元のスーパーで買ってくるキュウリやキャベツはとても苦く、
子供心に「ゴムを噛んでいるみたいだ。。。」と思っていました。
成長し、大学に入り大阪へ出て、音楽活動の為東京へ出てからは更に野菜を食べませんでした。
(だって、食べるとゴムみたいに苦いと思っていたので 笑)
しかし、そんな生活は長く続きません。。。いよいよ本格的に身体を壊し、和歌山へ帰ってまいりました。
そこで出逢うのです、直売所に!!
ちょうどその頃地元和歌山で日本で一番の売上を出していた直売所【めっけもん広場】が賑わっていました。
母と一緒に買物に出かけたその直売所で、新鮮な野菜と、それを求めに押しかける人々の波に出逢ったのです。
それからはサラダで白飯が食べられるほどの野菜好きな男に生まれ変わりました☆
あまりにも好きすぎて最近、家庭菜園をはじめました 笑
(やってみて皆様のご苦労が骨身にしみました。。。大変ですね!本当にご苦労さまです!!)
そうやって直売所に通うようになったある日、ふと、気づいたのです。
「あれ、この人のキュウリとあっちの人のキュウリ、何処が違うんだろう。。。」
そういえば今まで、値段だけでカゴに入れていた自分に気が付きました。
値段とバーコードとお名前だけの情報しかなく、違いが全く分からなかったのです。
僕だけでなく、お客様は素人です。素人が物だけを見て新鮮さや良さを判断をするのは難しい。
今日はどれを買おう、あ、これにしよう!と選ぶための判断材料、
すなわち【パッケージデザイン】が無いことに気が付きました。
もっと、違いや想いを教えてもらえれば、購入する側も豊かな消費が出来ます。
お客様は一生懸命作られた生産者皆様の
「これ食べてみてよ!ここが他とこんなに違うので、絶対美味いし身体にも良いから!!」
という声が聞きたいんです。
お客様はその違いや想いを買うのです。情報が無いと、
値段と容量の多さでしか判断できないのです。
しつこいですがお客様は素人です。「見たらわかるだろう」は通用しません。
今でもはっきり覚えています。売り場でボードン袋に入った不揃いな3本入りキュウリを握りしめ
「今こそ農業にデザインが必要だ!」と
心で叫んだことを。
大切な農業だからこそ、デザイナーとして少しでもお役に立てればと考えております!
【はりまぜ】に込めた想い
Company Nameの【はりまぜ】って「どういう意味?」と聞かれます。
推理小説の大家である江戸川乱歩が日々の気付きや思いついたアイデア
新聞の切り抜きなどを集めたネタ帳を「貼雑年譜」と言っていたそうです。
デザインとは、沢山の人達の想いを集めたコミュニケーションツールです。
独りよがりでアートなものを作ってはいけません。
世の中の「理(ことわり)を」集めてパッケージする。それが私達、はりまぜデザインです。
Company Profile
概要
▶社名 株式会社はりまぜデザイン
▶所在地 〒640-8152 和歌山県和歌山市十番丁91 十番丁センタービル6F-A
▶Tel 073-488-2578
▶Fax 073-488-2579
▶設立 2007年
▶代表取締役 角田 誠(つのだ まこと)
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2007年 角田(つのだ)の個人事務所として和歌山市に設立。
2009年 家庭用品全国シェア80%の海南市に事務所を移転。
2010年 産学官の山椒プロジェクトに参加。
2013年 農業分野へのデザインの必要性を感じ本格的に農業デザインに参入。
2014年 和歌山リサーチラボに市役所が移転してくることに決まり、それに従い事務所を岩出市に移転。
2016年 和歌山市に事務所を移転。
2021年 株式会社はりまぜデザイン
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事業内容
▶農業デザイン(出荷用シール・ラベル・袋印刷、加工品用シール・ラベル・袋印刷、ロゴ etc)
▶ブランディングデザイン(ロゴ、コンセプト設計・構築)
▶パッケージデザイン(ボックス、グラビア、台紙、ラベル、シール、タグ etc)
▶グラフィックデザイン(名刺、POP、チラシ、リーフレット、会社案内、カタログ、冊子、バナー etc)
▶店舗デザイン(店舗イメージ(設計別)、コンセプト、ロゴ、各種ツール、SNS etc)
Designer Profile

代表取締役/農業デザイナー
/歴史研究家(自称)
★受賞歴★
▶グッドデザイン賞2021
▶DFA Design for Asia Awards 2018
▶ご当地アイスクリームグランプリ2016【銀賞】【ご当地審査賞】
★経歴★
▶岩出市キャラクター選考委員
▶(財)わかやま産業振興財団 専門家派遣事業 専門家登録完了・実施
▶中小企業庁主催【よろず支援拠点】コーディーネター 2016-2021
▶和歌山農林大学校 アグリビジネス学科 外部講師
▶農山漁村発イノベーション中央サポートセンター中央プランナー
幼稚園で初めて聞いた浦島太郎。
その物語をイメージして絵を描く課題で画面いっぱいに亀を描きました。
それが高評価を得、百貨店に飾ってもらう。その絵の前で父母祖父母が喜ぶ姿を見て
「大好きな絵を描くだけで、みんなが喜んでくれる。こんなうれしいことはない!」と思い、
人を喜ばせるために絵を描き始めました。
商業デザインの基本理念である、
《自己満足ではなく誰かのため・モノを売るためにデザインする。》
この頃にすでに、この考え方が僕には出来上がっていたのかもしれません。
その後も絵や漫画を描いては友達や弟を喜ばせる少年時代でした。
高校はデザイン学科で商業デザインを学びました。
ある日カッターナイフのデッサンに対し恩師からの一言
「角田、そのカッターで物が切れるか?」で覚醒する。
中学までは誰にも絵の巧さは負けないと自負していただけに、
小手先の技で「どうだ、巧いだろう」という絵を描いていました。
そこを見事に見抜き、突き崩し、伸びきった鼻をへし折って頂けた瞬間でした。
しっかり対象物を観て、理解し、感じる。
「モノを売るためのデザイン」の基本中の基本です。
かっこいいとか、綺麗とか、己の価値観ではなく、きちんと対象を理解し、消費者を理解した上で描く。
あの一言がなければ、僕はデザイナーとして存在しませんでした。
その後は授業で出された課題も、依頼だと思いながら取り組むことでいくつか賞も頂けるようになりました。
卒業制作展ではB1サイズのパネル作品を1人1枚、というノルマに対し僕とYくんはそれぞれ10作品以上作りました。
どうしても全部飾って欲しいと願い出たが、展示会場にスペースが無くなり
「すまんけど、選定するように」と悲しい結果に。
これにより、次の年から僕達の様なパワフルな生徒が出た場合
全て飾ってあげられるようにと、広い会場での開催となりました。
広い会場を埋めるために1人1枚から→1人2枚のノルマに変更になり
2年下の弟に「兄ちゃんのせいでノルマが増えたやないか!」と後で嫌味を言われることになる。
デザインは全て悟った!などと、今振り返れば恥ずかしいことを公言し、
大学はデザイン学科ではなく、大阪芸術大学映像学科に入りました。
そこで映像と音楽と学食のおばちゃんに一番に気付いてもらえる声の出し方&食券の出し方を学ぶ。
映画を観倒し、路上でギターを掻き鳴らし歌い続けた4年間でした。
卒業後は映像学科で出逢った友達とコンビを組み、プロのミュージシャンを目指し上京。
画が浮かぶ様な音楽を!と鼻息あらく大都会の空の下で歌い始める。
有名ミュージシャンも出演していたライブハウスの店長に
「お前らは音楽と人間性は最高だが、腰が低すぎるのと服のセンスが無い」という
苦笑いするしか無い様な指導を受けるが、結局お金もないので同じ服を着続ける。
相方は「自分が楽しむ音楽」
僕は「人を楽しませる音楽」
という真逆のコンビでした。だからこそ紡ぎ出せるハーモニーが有りました。
やがて僕達のライブでは涙を流す女性がチラホラと。
中には「何故、私の人生を知っているの?!」と詰め寄られることも。
勿論、知っているわけではないのですが、お客さんが求めている音楽を
僕はいつも作りたいと願っていました。少しでも聴いてくれた人が幸せになれるようにと。
手作りのCDを作成し、100枚以上販売。
ジャケットのデザインやライブで配る冊子づくりが面白くなり、
練習に身が入らなくなる。ハモリを練習するよりも冊子づくりに追われる。。。
そして過酷な生活により体調を崩す。大手レコード会社からも声が掛かるが
芽が出ない毎日にそろそろ限界だと26歳で感じる。
音楽活動を「休止」という事にし、帰郷。
和歌山のデザイン事務所に就職し独立。
紆余曲折を経て元の商業デザインの世界に戻り今に至ります。
趣味は自他共に認める歴史です。
特に戦国時代、関ヶ原の戦いを中心に研究しております。
書物を読みあさり史跡を巡っておりますので
撮り溜めた写真や映像などをまたいつかご紹介出来ればと思っております。
狩谷 知子/Satoko Kariya
染織家/Designer/みかん農家
★受賞歴★
▶DFA Design for Asia Awards 2018
和歌山のみかんの専業農家に生まれる。
小さい頃から絵を描くのが好きで、物心ついた頃には広告の裏などに絵を描きまくっていました。
漫画家やイラストレーターになりたいとぼんやり思っていましたが、
仲良しの友達がべらぼうに絵が上手く、憧れて絵を描くものの、自分の実力の無さを実感する日々。
それでも諦めきれずに少しでも将来絵に関わる方向に進みたいと、
絵の専門クラスもある高校の普通科に入学し、美術部に入りました。
そこで、美術部の先生に進路相談をして画塾にも通うことになります。
デッサンを描き続ける内に絵は好きだけど、自分の進む方向とは少し違うと感じるようになり、
絵ではなく物づくりの方向へ進むことを決め、昔話や童話の世界でしか知らない染めや織をやってみたいと
近畿大学文芸学部芸術学科の染織コースへ入学。
「織物を構成するタテ糸のタテは経度の経、ヨコ糸のヨコは緯度の緯と表記する。
緯糸を通して経糸の間を行き来する杼(ひ)は英語でshuttle、スペースシャトルの語源。
織物は宇宙なのよ。」という恩師の言葉は今でも心に残っています。
大学で染めや織りの奥深さに触れ、作品を作り展覧会をすることの楽しさにも目覚めます。
デザインとアートの違いを学んだのも大学時代でした。
当時、天井から雨漏りするようなボロボロの教室でしたが、水場もコンロも揃っていて、
遅くまで残って制作するときは友達や後輩と毎日鍋パーティをしていました。
教室の時間外使用届けを出し続け、最初は怖かった守衛さんともすっかり仲良くなった楽しい大学生活の最後、
卒業制作の織りのタペストリーは完成し、審査も通って卒業の認可も下りたものの、
恩師から「この作品、あなたが全然出ていないわ。卒展までまだ時間あるから作り直しなさいよ。」と
まさかのダメ出し!!卒展まで約二週間しかなく、大慌てでデザインからやり直して恩師のOKがでた後、
糸の買い付けに行き、染めて、約2m×3mのタペストリーを朝から夜までひたすら織り続けました。
当時和歌山から大阪に通っていたので、天王寺に宿をとったり、友達や後輩に糸巻きを手伝ってもらったりして、
卒展の搬入日に皆展示している中、会場で最終の仕上げをして滑り込みでなんとか展示できました。
めちゃくちゃ大変でしたが、納得いく作品ができてやりきった充実感もあり、今では良い思い出です。
卒業後はテキスタイル系のメーカー等で働いていましたが、
東日本大震災を機に大量生産&大量消費の一端に組み込まれて仕事をしていることに疑問や虚無感を感じ、
翌年の春に地元の和歌山で家の農業を手伝いつつ顔の見える仕事がしたいとUターン。
かつてアルバイトしていた学童に非常勤で再就職した後、
貼雑の求人を見てHPで代表角田のデザインへの熱い想いに共感し、応募。
ダブルワークですが無事採用されて今に至ります。デザインの世界は本当に奥深く、日々勉強中です。
デザインで農業をはじめ他の産業に携わる方々のお手伝いができる事を嬉しく思いつつ、
ご依頼主様の想いに寄り添えるようにと心がけております。
仕事の合間に染織の作家活動も細々と続けており、たまに展覧会などに出したりワークショップをしています。
2013年に事故でムチウチを患い、知り合いの整体師さんに調整してもらって劇的に良くなってから
健康の大事さに目覚め、健康オタクに。
子供の頃から悩んでいた万年冷え性を卒業し、アレルギー体質も徐々に改善しつつあります。
現在整体を勉強中。
平山 鈴夏/Suzuka Hirayama
Designer/絵本作家(目指し中)
幼い頃、日本画で描かれた一匹の白い馬に心奪われてから、私の中で絵を描くということに特別な意味が生まれました。
もともと好きだった絵を、ただ描くだけじゃない、心を込めて描きたいと思うようになりました。
それからは大好きな動物の絵(特に馬)ばかり色々なところに描きまくりました。
椅子の裏にも描いて怒られました。
もっと絵を学びたいと思い、小学生の頃から高校まで絵画教室に通い、
中高とも部活は美術部、高校はデザイン科を選びました。
大学は京都の芸大で、ずっと憧れていた日本画を専攻しました。
大学の授業では描いた絵の合評があり、自分の作品について、自分の考えについて、人に伝えることが必要になりました。
そこで何を伝えるべきで、どうやったら伝わるのか、その大変さ、大切さを痛感しました。
特に卒業制作では作品への思い入れが強すぎ、様々な情報を盛り込みすぎて自分でも何を言っているのか分からなくなってくるという状況に陥り、
考えや思い、知識を書き出し、必要なものと必要でないものの取捨選択をしてまとめているうち、
自分はもっと人に伝えるということを鍛えなければと思うようになりました。
なのでこの事務所の求人を見つけた時にはこれだと思いました。
誰かの思いを沢山の人に伝えるデザインはとても繊細で難しく、
毎日学ぶことだらけです。とにかくがんばります。
そして普段身の回りにあるものを作っている人たちの思いに触れることができるのが、とても嬉しいです。
合間に絵や絵本を描いたりしていますが、デザイン、絵、絵本、それぞれに学ぶことを活かせたらと思っております。
雑賀 ひかる/Hikaru Saika
Designer/漫画家(修行中)
思えば、自分にとって絵を描くことやデザインをすることの起点は
「真似ぶ(まねぶ/学ぶ)」ことからだったような気がします。
母・叔母ともにデザインや絵に携わる人であったのと、
姉がお絵かきに目覚めたのをきっかけに
小さい頃の私も何となく真似して描いていました。
それからは、なんだか絵を描くことが妙にずっと楽しくて、
幼稚園、小学校、中学校…と描いてきて、今に至ります。
その間に、絵やデザインを生み出す仕事が、
夢や憧れから目標へ変わっていきました。
中学校では正式に美術部に所属していましたが、
高校には美術部がありませんでした。
それでも絵を描きたかったので、部員が私と友人の二人ぼっちの
お絵かき同好会を立ち上げる始末でした(卒業まで二人ぼっちでした)。
大学時代は、絵画部とデザインに関わるゼミに所属し、
学祭のポスターを描いたり、
とある授業を通じて和歌山市にまつわるかるたを制作したり、
とにかく毎日絶え間なく絵を描いていました。
大学卒業後は印刷会社に入社、DTPオペレーターとして
広告・冊子・パッケージを制作する仕事に従事しました。
社内でデザイン性よりスピードをとにかく求められる仕事をこなすうち、
自分がやりたい仕事は本当にこれだろうかと疑問を抱きました。
悶々と自問自答し、4年間の勤務を経て退社しました。
より自分の特技を活かせるような仕事はないかと思い、
こちらの事務所の求人を見つけました。
丁寧にお客さまの心に寄り添う優しさと笑顔にさせる楽しさに満ちたデザインを
HPで見てから、
こんな仕事したい!!と思い、真夏のある日に飛び込みました。
この事務所に入社してからは、
小さい頃の「真似ぶ」気持ちを思い出す毎日です。
こんな風なデザインをしたいな、と憧れに思うものがたくさんあります。
また、わたくしごとですが、仕事の合間に趣味の延長で漫画も描き始めました。
どちらもたどたどしい足取りですが、
少しずつ吸収して良いものを作りたいです。